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Vol.9
「個人の尊厳」だけでは不十分

 

​稲垣 良典
出典神とは何か 哲学としてのキリスト教 
講談社現代新書  2019年  252〜255頁

さきにわが国では「人間の尊厳」がもっぱら「個人の尊厳」として理解されていることに言及した。日本国憲法は国民の生命、自由及び幸福追求という基本的人権を規定するにあたって「すべて国民は、個人として尊重される」(第一三条)と宣言し、第二四条では明確に「個人の尊厳」という表現を使用している。さらに教育基本法の前文では個人の尊厳がこの法律の基本的理念であると述べ、教育の目的については「人格の完成を目指し、‥‥‥」と言明しているが、この目的の実現のためには「個人の価値を尊重して、‥‥‥」 と、やはり個人の尊重を重視する。当然予想されることだが、平成一六年に改正された民法でも第二条で、「この法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、解釈しなければならない」と規定されている。
 

戦後のわが国で個人の尊重がこのように強調され、重視されるようになったこと自体は、それが「封建的」(私は「父権主義的」が適切な用語だと思うが)な制度·慣習によって長い間抑圧·制限されてきた「自由に·主体的に」人間として生きる権利の回復、という極めて正当な国民的要求の表現である限り、何ら問題はないと思う。私がわが国で「人間の尊厳」(ないし「人格の尊厳」)が「個人の尊厳」で置き換えられている現状に疑問を持つのは「人間の尊厳」は右に述べたようにその客観的な基礎づけを理論的に行うことが比較的容易であるのに、「個人の尊厳」を理論的に基礎づけることは困難であり、私が知る限り近·現代においてそれを適切に成就した事例はないからである。


これははなはだしく独断的で、偏狭極まる言明として非難されるかもしれない。しかし前述したようにオッカム以後の近代思想においては「存在するものはすべて個体である」という個体主義的「存在」観が自明の理として受け容れられているため、個々の人間の「個別性」を厳密·理論的に確立する試みは閉却ないし無視されており、その帰結として「個人の尊厳」も厳密・倫理的に確立されるには到っていないのである。
 

これは暴言のように響くかもしれないが、私はおよそ存在するすべての人間という種(species)の中で、他のあらゆる人間から区別されるこの人間、という感覚的に経験され、知覚される個体について語っているのではない。そのような「個体」「個別的存在」の唯一性は自明の理であるが、こうした唯一性についてどのように「かけがえのなさ」「他の何ものによっても替えられない価値」が語られようとも、それで「個人の尊厳」が客観的に基礎づけられたと認めることはできない。なぜならそのような「個」はつねに何らかの全体(集合)を構成する部分でしかなく、従って、他の部分によって置き換えることが可能だからである。

 

「尊厳」(dignity’s)という価値が認められるのは、何らかの全体を構成する部分とは違って、他のいかなるものによっても置き換えることの不可能な存在であり、つまり何らかの全体の部分ではなくそれ自体が端的に「全体」でなければならない。それはわれわれが前述した形而上学的な自己認識を通じて確認できる精神的存在としての人間、すなわち「人格」である。そして精神的存在としての人間が「全体」であるのは人間精神つまり知的霊魂は存在するもののすべてと合一するという「無限へのちから」を有するからに他ならない。

 

私が「個人の尊厳」があたかも「人間の尊厳」ないし「人格の尊厳」以上に日本人の生き方、考え方を導く理念であるかのように受け止められ、評価されていることを看過できないのは、「個人」という概念が精神的存在という人間の本質とも中核とも言うべき側面を無視して、単に他のあらゆる人間からこの人間を区別する特徴、という感覚的に経験される事柄のみを重視していると思われるからである。

私はこの人間を他のすべての人間から明確に区別される存在たらしめるのは、「個性」という言葉で一括されている、その種の感覚的に知覚される特徴の如きものではなく、各々の人間(個人)はもろもろの物体よりも高次の仕方で存在する「精神的存在」である限り、何らかの全体を構成する部分ではなく、それ自体が「全体」だからだ、と考える。

そしてこのようにそれ自体が「全体」であるような個々の人間・個人に特有の尊厳について語るとすれば、それはこのような高次の存在が、すべての在るものの第一根源で創造主なる神と直接・無媒介的に結合していることに基づくのは明白である。こうして「個人の尊厳」は、他のあらゆる人間から感覚的経験によって区別される「唯一性」によってではなく「人間の尊厳」と同様に人間の自然本性、さらには人間の「存在」の第一根源であり、究極目的である創造主・神との直接的結びつきに基づいて理解すべきであると私は考えている。

 

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​パターナリズム

ペルソナ

アニマ

いながき りょうすけ

1928年生まれ。佐賀県出身。哲学・法哲学

2022年1月 永眠

​ 【学歴】

 東京大学文学部哲学科、アメリカ・カトリック大学大学院、

 M.A.取得、ph.D.取得、​文学博士(東京大学)

 【職歴】

 南山大学、九州大学文学部教授、福岡女学院大学人文学部教授

 長崎純心大学人文学部教授・副学長、同人間文化研究科教授

 米国ミズリー大学客員教授、キングスカレッジ客員教授、ドイツ国ボン大学客員教授

 ハーバード大学、プリンストン高等研究所研究員

 【受賞歴】

 2013年 第67回 毎日出版文化賞

 2015年 第27回 和辻哲郎文化賞・学術部門

 

【著書】

 『トマス・アクィナス哲学の研究』

 『法的正義の理論』

 『習慣の哲学』

 『抽象と直観』

 『トマス・アクィナス倫理学の研究』

 『神学的言語の研究』

 『講義・経験主義と経験』

 『人格《ペルソナ》の哲学』

 『トマス・アクィナスの知恵』
 『カトリック入門 日本文化からのアプローチ』
 『神とは何か 哲学としてのキリスト教』 

 

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