top of page
202008cover.jpg
Vol.2
「正義と狂気」の間
​稲垣 良典
​2020.July

4年前の丁度今頃(2016年7月26日)相模原障害者施設やまゆり園で起った殺傷事件は、事件自体の忌まわしい極度の残虐さの故だけでなく、当の実行犯が自らの行為について語った言葉が、あたかも第三者による事件の解説のように響くものだった奇妙さの故に、私の記憶に深く刻みこまれています。それは犯罪行為の最中に捕えられた加害者達が口走りがちな憎悪や怒りの情念に満ちた支離滅裂な言い分ではなく、冷静で客観的な説明であり、「私は自分がなすべきだと熟考の末に確信したことを、義務感の命ずるままに実行したのだ」という一見筋の通った自己正当化のマニフェストとも言うべき発言でありました。

私はいま「熟考の末に確信した」「冷静で客観的」「義務感」などの言葉を用いましたが、そのことは当の暴力行為が衝動にかられた突発的なものでなく、極端ではあるけれども理性的に考えた結果であって、到底是認や容認はできないにしても、理解はできるものだった。という意味に解されるかもしれません。そこからこの残酷な殺傷事件の犯人は、狂気にとりつかれていたのではなく「正気」であった、と判断する人が出ることもありうる。あるいは昔から「暴君殺し」を容認する法理論もあるように、この犯人も一見常規を逸した奇怪な考えに取りつかれているようではあるが、実は自らの行動が崇高な正義の原則に照らして正当化されるのだと考えた確信犯と見なすべきだ、と主張する人が現れても不思議ではないかもしれません。 

 

しかし私自身はごく素朴に道徳的真理と価値の絶対性を信じている普通の人間として、人間は理性と良心の命じるままに行動すべきことを主張しますが、人間の理性がいかに有限で、とくに人間にとって最も重要な事柄の認識に関して謬り易い現実を直視しているつもりです。そのような人間である私にとって、この殺傷事件の犯人が「正気」で行動したとか、彼を「確信犯」と見做すべきだという見解に賛成することは決してできません。

 

まずこの青年が介護者として保護・援助すべき義務を負う障害者たちを自分は殺すべきだ、しかもそれは障害者たちにとって望ましい善いことなのだ、と確信するに到った根拠は、彼自身が語るところによると、人間の価値は経済的価値を創り出す能力であり、この能力を喪失した人間は生きる意味がない、という価値観でした。この価値観の前半はよく知られた唯物論的価値観の決り文句ですが、問題の後半の出所は私には判りません。とにかく犯人は「生きる意味がない人間の生命を抹殺する行為はそのまま世界と日本の価値の増進であり、その実行は義務である。」と自分の理性能力を働かせて熟考した末に確信し、その義務感に從って行動した、というのです。
 

では彼が自らの行動の根拠とした価値観は普遍的に妥当する真理で、彼の行動を理性的たらしめたのでしょうか。確かに価値というものはそれ自体として始めから自然界に実在していたのではなく、人間の働き(労苦)によって造り出されるものだ、ロマンチックに夢みるのではなく、現実の世界で生きる人間にとっては、価値あるものとは人間の労苦と努力の所産であり「棚からぼた餅」の類いではありえない、という議論は、科学によって立証される理性的な立場とされており、自由で自立する人間であろうとする現代人には魅力があるに違いありません。
 

しかし経済的価値とは文字通り、何か他の等価物で置き換えられるような相対的価値、つまり価格(〔独〕Preis)であり、あらゆる価格を超える人間の内的な絶対的価値である尊厳(〔独〕Würde.〔羅〕dignitas)とは次元を異にすることは、人間としてすこしでも自らを振り返ったことのある者なら容易に理解できる真理ではないでしょうか。改めて言うまでもなく「教育」は根本的に「人間の教育」であり、人間で「ある」こと、人間の本質とも言える「人間の尊厳」について学ばない者がいるとしたら、それは文字通り教育の不在を示すものではないでしょうか。

 

ここで「人間の尊厳」について、イタリア・ルネサンスの思想家ピーコ・デッラ・ミランドラ(1463-94)や、わが国ではよく知られているカントの立場の批判もふくめて説明を補うべきですが、省略して私がこの青年の行動が「正気」で行われた「確信犯」の行動であったとは考えることができない理由を述べることにします。言うまでもありませんが私には精神医学の素養はありませんので、ここで述べることは一つの素朴な意見です。

 

まず「人間は理性的動物である」という有名な定義がありますが、ここから「理性」という、すべての動物のなかで人間だけが所有する卓越した能力を行使するのが人間である、と結論するのは危険であって、人間は理性を行使して生きることによって人間で「ある」ことを完成しなければばらない、その意味では人間は人間で「ある」と同時に人間に「なる」ことを学び、実現しなければならないのです。人間の一生は人間で「ある」ことの完成を目指す旅路なのですが、われわれの間にはそのような「旅する人間」(homo viator)という人間の根本的な現実を見失い、理性という卓越した能力、その証しとしての自由という特権が、あたかも自分を神に高めてくれたかのように誤解して、自らの理性のみに頼って行動しようとする人物が現れます。

 

ユダヤ人はこの世界で生存するに値しない、それゆえにこの人種を抹殺することが私の歴史的使命だ、そのように自らの理性によって判断し、実行に移したヒトラーは、理性を欠いていた故にではなく、「自分の理性のみ」に頼って行動した人間でした。やまゆり園の障害者を抹殺しようとした青年も同じです。彼は理性を失っていたからではなく、自分の理性のみを残してすべてを失っていた、との理由(1)で私は彼が正気だったとは言えないと判断します。彼を「確信犯」とは言えないと考えるのも同じ理由からで、確信犯は自分が依り所にする信念やイデオロギーについて、同志や論敵を含めて、討論や論争をする余裕を残していると思われるからです。

きま

1)「狂人とは理性を喪った人間ではない。

     狂人とは理性以外のすべてを失える人間のことなのだ。」

 

            この逆説的で洞察に満ちた定義は、

            G.K.Chesterton,Orthodoxy,Dodd,Mead & Co. N.Y. 1908,p.32

            からの引用です。

いながき りょうすけ

1928年生まれ。佐賀県出身。哲学・法哲学

​ 【学歴】

 東京大学文学部哲学科、アメリカ・カトリック大学大学院、

 M.A.取得、ph.D.取得、​文学博士(東京大学)

 【職歴】

 南山大学、九州大学文学部教授、福岡女学院大学人文学部教授、

 長崎純心大学人文学部教授・副学長、同人間文化研究科教授

 米国ミズリー大学客員教授、キングスカレッジ客員教授、ドイツ国ボン大学客員教授、

 ハーバード大学、プリンストン高等研究所研究員、

 【受賞歴】

 2013年 第67回 毎日出版文化賞

 2015年 第27回 和辻哲郎文化賞・学術部門

 【著書】

 『トマス・アクィナス哲学の研究』

 『法的正義の理論』

 『習慣の哲学』

 『抽象と直観』

 『トマス・アクィナス倫理学の研究』

 『神学的言語の研究』

 『講義・経験主義と経験』

 『人格《ペルソナ》の哲学』

bottom of page