2018年 Atelier Bravoにて 写真中央、稲垣良典氏
Vol.1
障がい者のアート活動についての一考察
稲垣 良典
2019
こうむ
障がい者にとって絵画、彫刻、音楽などの分野でのアート活動は何を意味するか、あるいは障がい者がアート活動にかかわることの積極的な意義とは何であるか。私は哲学者西田幾多郎の言葉をかりると、二十年ほど黒板に向って坐っていた後、向きを変えて黒板を背に立ち(もう後輩に席を譲りなさいと勧告されるまで)そこに居ただけの生活をしてきた人間なので、このような問いに経験にてらして答える資格はない。しかし旧制高校時代から古代・中世の古典的哲学、とくに古代ギリシア哲学の伝統をキリスト教的知恵の光に照らして継承することを通じて生み出された「キリスト教的哲学」(いわゆる「スコラ哲学」)に関心を持ち続けたお蔭で、こうした問題について根本的に考える訓練だけは受けた。そこで考えるところを述べさせて頂きたい。
まず、「障がい者」あるいは「身障者」という言葉について。障がいがあるということは思うままに、自分がこうしたいと望む通りに動作や働きができないことであり、それは自分がしたいことを、その通りにする「自由」を喪失している状態を意味する。ここで「自由」という用語が出てきたことを奇異に思われるかもしれないが、自由とは選択肢のどれにも縛りつけられていない宙ぶらりんの状態 ではなく、例えば「習慣のお蔭で英語が自由に話せるようになった」と言う場合のように、「何事かを自分が望むままにすることができる」という能力を意味する言葉なのである。
ところでこのような「自由」は人間が快適で満足を覚える生活を送ることを助けて可能にしてくれるものなので、そうした「自由」を奪われ、欠如することは、まさに障がいを蒙むることであり、誰しも避けたい苦痛であるに違いない。しかし ー これが私の強調したい重要な点であるが ー このような「自由」は人間がまさしく「人間」であり、また「人間である」ことを学び、実現してゆくために絶対に必要な「自由」ではない。人間を人間たらしめ、また人間が人間であることを学び、完全に実現する(これが人間の真の幸福)ことを可能にする自由とは、善そのもの(最高善)に到達しうることのゆえに、他のすべての善きものへの執着から解放される、という「自由」であろうと私は理解している。
この人間を人間たらしめる真の自由に基づいて生きることに関しては、障がいの有無は まったく関係がない。そればかりか、真の自由に基づいてよりよく生きるために、生活を快適で満足を覚えるものにしてくれる、つまり「自由」にしてくれる条件 ー 財産、家庭、自己決定権 ー を自らの意志で放棄する人々、まさしく障がいを我が身に引き受ける人々が存在する。清貧、貞潔、従順の誓願を立てて、ひたすら神に奉仕する道を選ぶ修道者たちである。修道生活に身を献げた人々を障がい者にたとえることは筋違いだろうと思う人がいたら、私は両者が蒙っている不自由さは共通であることを指摘した上で次のように論を進めたい。修道者がこのような不自由、とくに自らの意志を放棄することを迫られる従順の誓願という厳しい「不自由」を受けいれるのは、自分がそのような犠牲を捧げる生活へと神によって招かれていると信じるからである。そして私は障がい者が生まれながら身に受けている障がいという「不自由」を、修道者が捧げる犠牲と相通じるものとして、つまり「召命」 calling, Berufungとして理解することが許されないだろうか、と考える。
このような提案は障がい者の現実を特殊な宗教的見地から理解しようとする試みとして頭から斥けられる可能性が大きい。しかし私は できるかぎり障がい者が直面している現実の本質に迫りたい、そして障がい者が人間であることを学びつつ、人間性を実現してゆく道としてアート活動を理解したい、と考えた。その結果として辿り着いたのが、障がい者が身に受けている不自由という障がいは偶然的な事実、必然的な宿命、あるいは限りなく多様な「個性」の一つとして片付けられるものではなく、障がい者を卓越した人間性の実現への道であるアート活動に専念するようにと招く徴しではないか、という見通しであった。
さきに触れたスコラ哲学の倫理説によると「アート」は賢慮prudentiaと共に実践的な知的徳であり、「徳」すなわち「善い習慣」とは人間をその究極目的である幸福へと導いてくれる道であり、人間性のより完全な実現にほかならない。つまり古典哲学の「アート」理解によると、アートは言うまでもなく何らかの制作活動を含むものであるが、根本的にはアート活動をする人間の人間性を実現し、完成する徳にほかならない。アート活動は単なる趣味や娯楽ではなく「プロ」の仕事だと言われるが、「プロ」すなわち「プロフェッション」は普通「職業」と訳されるが、もともとcalling(英)Berufung(独)と同じく或る高い使命への招き、召命、ないしそれに こたえることだ、と聞いている。障がい者の アート活動こそ「プロ」の仕事ではないのか。
ぼくの時間 〈2017年〉墨汁・クラフト紙(900×1200mm)・伊藤彬の世界より
『所 感』
最近私は、米国で学生生活を送っていた頃からずっと購読している『タイム』誌の表紙裏面の、「わたしは光と音にとても敏感なのです」と大きな文字を記したポスターの不可解さが気に掛かるようになっていました。ところが今回、自閉症と診断されているという伊藤彬さんの作品を拝見しているうちに、ふと思い当たって『タイム』のポスターをよく調べたら、下の隅に「感覚的敏感さは自閉症の徴しです」と小さい文字が記されていました。
私が伊藤さんの作品から受けた強烈な印象は、 何という感覚の敏感さ、そして驚くべき精神の集中度、というものでした。それで自然にポスターに記されていたあの大きな文字が頭に浮んだので しょう。私の印象は見当違い、的外れかもしれません。しかし例えば目覚時計と砂時計を一杯描いたあの絵を一目見て、私は大きな驚きに打たれたのです。大事な時が来たことを告げる目覚時計、目に見る世界のすべてのものを未来から過去へと抗いえぬ力で変えてしまう時の流れを音もなく示す砂時計。この二つの時を生きる「私」「自己」を鋭く感じ取って描き出したのがこの絵ではないか、そう私は思ったのです。
しら
あらが
うか
クロノス
・ 時 【カイロス】 … 好機、「今こそ その時」という場合の時。
・ 時 【クロノス】 … 時間を計る(時計:クロノメーター)という場合の時。
・ 自閉症 【英語:autism】 【ギリシャ語:autos (自己・自我) 】
とき
とき
カイロス
いながき りょうすけ
1928年生まれ。佐賀県出身。哲学・法哲学
【学歴】
東京大学文学部哲学科、アメリカ・カトリック大学大学院、
M.A.取得、ph.D.取得、文学博士(東京大学)
【職歴】
南山大学、九州大学文学部教授、福岡女学院大学人文学部教授、
長崎純心大学人文学部教授・副学長、同人間文化研究科教授
米国ミズリー大学客員教授、キングスカレッジ客員教授、ドイツ国ボン大学客員教授、
ハーバード大学、プリンストン高等研究所研究員、
【受賞歴】
2013年 第67回 毎日出版文化賞
2015年 第27回 和辻哲郎文化賞・学術部門
【著書】
『トマス・アクィナス哲学の研究』
『法的正義の理論』
『習慣の哲学』
『抽象と直観』
『トマス・アクィナス倫理学の研究』
『神学的言語の研究』
『講義・経験主義と経験』
『人格《ペルソナ》の哲学』