Vol.8
共生としての自由
中里 晋三
哲学者
東京大学共生のための国際哲学研究センター/認定NPO法人Living in Peace
2021.December
希代の数学者アンドレ・ヴェイユの妹であるシモーヌ・ヴェイユがレジスタンス運動に身を投じて1943年に34歳で病没する直前、恐らく絶望に打ちひしがれながら最期の熱情をもってしたためた草稿はのちに編纂されて『根をもつこと(L’Enracinement)』と題された。死後、約80年のときの経過は、時代の表面的な進歩をさかんに主張するようでいて、実のところ彼女が斃れた地点といま私たちがいる場所とはほとんど同一だ。その書の劈頭で主張される「いかなる意味においても義務は権利に先立つ」という美事な独断が不協和音をともなってしか私たちの耳に届かない事実が、「権利」概念に拠って立つ社会にいつでも「権利擁護」とはほど遠い現実が付きまとうことの証左と思う。
考えるに、シモーヌの独断の「いやな感じ」は、「権利」を貶め、「義務」の絶対化を図る彼女の主張があたかも「自由」の否定と感じてしまうがゆえだろう。けれども、選択肢の多さがそのまま自由の程度を表すかのような(卑しいバージョンの)成金主義的な発想は捨てなければならない。RPGで主人公がアイテムを獲得するごとにレベルアップするのと類比的に、私たちは自由になれるわけではない。自由とは、何か異質なものとの予期せぬ出会いを通じて、今この瞬間に自由になりつつあるという実感が露わにするものであって、目の前に分かりやすく提示されている階段を一段一段登って行くのとは、本質的に異なる。自由とは、そのように捉えがたく得がたいものである。しかし自由はそれゆえ、ひとつの奇跡として燦然と輝く。
たとえば美との邂逅は、まさに一つひとつが自由のレッスンだ。なぜ美しさを感じる生物的な機構があるのか。それはおそらく解明しうる。けれど、なぜ美が存在するのかという問いに答えはない。美とは全くの余剰である。そして、この世界になくても何も困らないはずの美がなぜか存在してしまっていることに、私たちはあるときふと気づく。しかも、どうやらそれはさまざま存在するらしいことにも。夏に向かおうとする木々の新緑は、冬の夜空にひとつ浮かぶ満月は、なぜあんなにも美しいのか。子どもたちの賑々しい声は、愛する人のやわらかな体温は、なぜあんなにも愛おしいのか。世界のなかにたまさか存在する、そうしたものたちに気づくときに初めて、私たちは美という他なるものに応答する。自由は、まさにその瞬間、私たちが世界のさらなる潜在性に気づき、いっそう応答可能な主体へと転じえたことの自覚において経験されるだろう。
自由とは、私たちが自己に異他なる他者と真に出会い、それを肯定しうるたびに、そしてそのことによってのみ得られるのではないだろうか。ならば、自由の契機とは、他者といかに出会うかであって、応答しうる、すなわち責任を果たしうる(responsible)主体であることこそが自由の条件だ。「義務」は、自由を損ねるどころか、自由の本質をなす。そして、応答可能性としての「義務」はまた、この世界に投げ込まれて、生きようとするまえに生きている私たちの根源的な性格でもある。赤ちゃんは生まれた直後から、誰に教わることもなく、身に襲いかかる不快に全身全霊であらがい、どうにかしてでも快を作ろうとするではないか。それは取りも直さず、生まれながらに私たちが持っている「生きる力」である。
「他者」とは、美を体現するものたちにもちろん限らない。私たちはつい他者を自己とどこまでも対照的にとらえてしまうが、他ならぬ私たち自身、私たちに対して他者である。むしろ自己のうちなる他者にこそ、他者性は際立つ。そして自己自身とのさまざまな出会い直しは、それゆえ、私たちの自由をそのつど生み出していくものとなる。何らかの困難が乗り越えられたり、思わぬことが可能になったりする形で、自己のうちの他者と出会うこともあれば、融通の利かなさを受け入れるという形で、異なる相貌をもつ自己と出会うこともあるだろう。逆上がりが初めてできた日のうれしさは、できることが一つ増えたことにではない。それは、重力に抗う動きを可能にした、まるでわたしのものでないかのような身体が、わたしのものであった驚きだ。あるいは、目の前で大切ないのちが消えようとするのをただ見守るしかなかったとき、わが身の無力は呪わしいものでしかない。しかしたとえば回顧により、わたしは何もできずとも、消えゆくいのちを訪うことを決して辞めなかったと気づくとき、ヒーローとはほど遠いわたしの新たな相貌が見えてくる。自由は、それらの瞬間ごとに小さく、確かに芽吹く。
私たちは他者と肯定的な出会いを経なければ、いかなる意味でも自由になれない。他者抜きに、自由はありえない。そして、自由の存立がそうだったごとく、他者の存在もまったくの奇跡である。わたしだけでも良かったこの世界に、わたしではないものがいる!「わたしのみ在る」を疑わない独我論者として存在を始めた私たちはみな、かつてそのことに驚嘆したのではなかったか。その驚きをいま一度、思い出そう。
翻って私たちは、長じてともに暮らすようになった人々と、他者として出会えているだろうか。言うまでもなく「他者」なる言葉は、通常、美でも自己自身でもなく、ともに生きる他の人々を指して使われる。では私たちは日々、そうした他者に、他者として出会えているのか。多数でなくてもよい。少数であれ、他者に、他者として出会い続けられているだろうか。
他者との出会いは、予期しえない。私たちは、いつどのように生じるか分からぬものに向けて、たえず自己を開き続けなければいけない。そうせねばならぬ根拠などまるでないままに。しかし、まったくの無根拠において他者との出会いを予感し、信じ続けるものでなければ他者とは出会えない。他者への信仰のみが、他者との出会いを可能にする。それは妄信であっても、盲信ではない。他者とは、私たちの能う限りの感性、感覚を研ぎ澄まして、出会おうとされるものだから。他方、他者は、出会うたびにわたしの理解を超えたものとして、強烈な光芒を放ちつつ、彼方へ後退していくものでもある。対話は、そうした他者との出会いを媒介するが、それは決して他者を理解するためのものではない。他者を理解するどころか、理解しえないものとして他者を、他者として、浮かび上がらせるものが対話である。対話は、私たちの手が届かぬ彼方を、「あなた」、そして「わたし」という他者として現前させる。私たちは他者とともにあれるのだという他者への信仰はまた、同時に、他者は無限であると教えてくれる。他者の無限こそ、この世界の希望である。
シモーヌ・ヴェイユが生まれてちょうど78年後の同日に、わたしは生まれた。そして今年の8月、彼女の命日を過ぎて、わたしは彼女の生きた時間を超えて生き始めた。シモーヌ・ヴェイユはほとんど自死に近いかたちで亡くなったと伝えられている。そこにはどれほどの絶望があったろうか。しかし、わたしは彼女の遺した言葉に触発された希望を語りたい。そしてそのように語られた希望を、現実の奇跡として、わが身で生きたい。他者とともにあることで生まれる自由という奇跡を。
中里 晋三(なかざと しんぞう)1987年2月3日東京生まれ。
東京大学理学部物理学科卒業。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。
現在、東京大学共生のための国際哲学研究センター特任研究員、
および認定NPO法人Living in Peace代表理事。
専門は哲学および児童福祉。
実践の現場に赴きながら、人と人がともにあることを語るためのことばを探している。
並行して「すべての人に、チャンスを。」を理念に掲げる認定NPO法人Living in Peaceの共同代表として、
国内の困難な家庭環境にある子どもたちを支援する「こどもプロジェクト」を担当。
認定NPO法人Living in Peace
https://www.living-in-peace.org/