Vol.3
稲垣良典氏の『「正義と狂気」の間』についての論評
山中 康裕(京都ヘルメス研究所・京都大学名誉教授)
2020.September
はじめに
障がい者のアート活動の確立を目指しての活動の一環として発刊され「Art & Art」編集部の鎌田恵務・編集長から、同誌vol.2に掲載された論者『「正義と狂気」の間』という論考についての意見を言ってほしい、との要請で、本稿にとりかかった。
1.
何ゆえに筆者に白羽の矢が当たったのか、と思うに、論者が、文中で「…私には精神医学の素養はないので、ここで述べるのは一つの素朴な意見です。」と断っておられるので、ははあ、精神医学の専門家としての意見を求められたのかな、と思った次第です。
そして、さすが、毎日出版文化賞や和辻哲郎文化賞などをとり、九州大学や長崎純心大学などの教授や、ドイツ国ボン大学や米国ミズーリ大学の客員教授などを兼務しておられる著者だけあって、「狂人とは理性を喪った人間ではない。狂人とは理性以外のすべてを失える人間のことなのだ」というChesterton,GKのOrthodoxy,Dodd,Mead &Co. N.Y.1908p32からの引用に基づいての論考だということを明記しておられるので、論陣が張りやすいのでお引き受けした。
かくいう私は、精神医学者の端くれであるが、この論者流に言えば、私の方は哲学や倫理学、はたまた、経済学や政治学などの専門家ではないので、やはり、その範囲内でのささやかな論考とお考えいただかなければなりません。
2.
さて、この論考の、そもそもの発端は、2016年7月26日に起こった、相模原障害者施設やまゆり園の殺傷事件であり、その犯人が述べた「私は自分が為すべきだとの熟考の末に確信したことを、義務感の命ずるままに実行に移したのだ」との発言について、立論されていることは明白である。
まず、狂気と精神病、特に、その中核であるところの統合失調症(2002年までは「精神分裂病」と呼称されていた。これらの訳語は、いずれもスイスのBleurer,Eの Schzophrenie、1910の訳語変更であって、全く、同一内容)に関わっての発言であると思われるので、そこから単刀直入に入ると、世間の人は、この二語「狂気」と「精神病」を殆んど同値として考えている人々が多いと思われるので、一言すると、これら二語の内包は全く違う、と言わねばならない。
誤解を恐れずに、筆者も単刀直入に言うと、例えば、今選挙戦の真っ最中のトランプ米大統領の名前をあえて挙げるが、彼の言動を「狂気」と呼ぶ人があってもおかしくないだろう。トランプ氏には幾多の暴言・無謀行動があり、そのどれをとっても「狂信的な確信犯的」言辞・行動で、例えば、以前のアルカイダ首領とされたビンラディン氏殺害の時も、今度のイラン・コッズ革命防衛隊ソレイマニ最高司令官殺害に際しても、「彼らのテロを未然に防ぐ、われらの正義の行為である」との発言に基づく行動であり、明らかに、正気の上で、「正義」を振りかざしている。ここで、筆者は、「正義とは何か?」との問いを立ててみたい。
「正義」は明治以降「義」に代わって遣われるようになった概念で、もともとは、英仏語の「justice」のもととなった羅典語「justitia」、あるいは、独語「Gerechtigkeit」、希臘語「δικαιοσυνη」などの概念に基づいた考え方である。
ここで、通常言われる「正義」とは全く違って、このトランプ氏の場合、「全くご都合主義の、自分だけにとって、「正当」であるにすぎず、何ら、明証性のない何の根拠もない一方的な言辞であることは明らかであろう。なぜなら、殺された側から見たら「正義」などとは到底言えないし、通常の欧米人にとっても、必ずしも「正義」と言い切れる人は少なかろうからだ。この際に言われる「狂気」的な言動は、しかし、精神医学でいう「精神病」特に「統合失調症」とは何の関係もないものである。
その伝でいえば、先に論者が引用されたChesterton,GKのいう「狂気」も、全く関係ないどころか、ああ言われてしまうと、全くの誤解しか産まない実に危険な言辞であると思われる。なぜなら、彼ら精神病者は、決して「理性」すべてをを失っているわけではないし、「理性以外はすべて喪っている人」などでも全くないからである。
しかし、では、全く違っているかといえば、現今においても、彼ら病者は、「殆んどの権利を奪われた人」であるというか、そもそも、本邦では明治憲法下の「刑法」(1907)以来、連綿として現行「刑法」に至るまで、全く、この条項は変わっておらず、この刑法においては、いわゆる「禁治産」の条文が依然として、彼らを縛っており、それに基づく刑法犯罪者が、「責任能力なし」の判定のもとに、「無罪」を言い渡される実に奇妙な事例が絶えない。このことは、結局彼らが、「理性以外の全ても失える」とChesterton,GKの言っていることとほぼ一致することは間違いない.しかし、精神医学者にも、いろいろな意見があり、この条項は、「精神医学をも、彼ら、精神病者をも大きく誤解させる」元凶なのであって、筆者は、刑法そのものからして根本的に改めねばならないと考えている一人なのだ。
3.
少し、遠回りをしすぎたかもしれない。もともとの、論者の出発点に戻ってみよう。あの事件の犯人は、「自分は、熟慮の末、彼らは、殺されて当然であり、自分は正義に基づいてこれを行ったのに過ぎない」と、「正義」を振りかざしているが、私は、この「正義」という言葉は、全く信用ならない困った言葉だと思っているのだ。
これまでのいかなる戦争も、いかなる歴史的に輝かしき事態も、例えば、十字軍とかフランス革命でさえも、今般の「香港の国家安全法」も、この言葉なしでは行われていない。いわば、これをかかげる者にとっては、「正義」が錦の御旗であろうが、その反対側からは、全くの暴虐としか見えず、その「定義」が、どうなっているのかすらおぼつかない困った代物なのだ。
精神科医だからといって、勝手に彼らに診断を下すわけにはいかないし、そもそも「精神鑑定」なる装置が果たしてきた数々の悪行にも異論がある私からすれば、相当問題性を孕んだ問題であるが、そう言った大上段からのものではなく、ごく、普通の精神科医としての意見を言うと、「確信犯」は、通常の意味では、決して、統合失調症などではなく、極端に偏った「思い込み」による行動としか言いようがなく、これは、先般の「京アニ事件」においても見られたものである。
しかし、これが、「障碍者一般」に影響を及ぼす問題であったがゆえに、今回の立論となったモノであろう。そのことそのものについては、筆者も、あれはとんでもない間違った考え方であり、到底容認できる普遍的な考え方であるとは決して言えない点では、論者と軌を一にする。
4.
そもそも、「道徳」という考え方が問題となろう。元来、「道徳」とは、ご承知のごとく、中国の「道」と「徳」に基づくものが基盤であったから、当然ながら老子の「Tao」と孔子の「論語Lúnyú」に基づいて自ずから発展してきた中国由来の道徳思想であり、本邦でも昭和中期までは政治倫理の中核であったが、戦後、却って反動的に見返ることが非常に少なくなった思想であり、存続したものも筆者からすれば例えば「道徳教育」からして、うさん臭いものであった。しかし、道徳的でないことを良しとするわけではない。「不道徳」も「非道徳」もとても困った事態であることは当然であるが、今、「道徳」などというと、右翼思想の延長上に考えられてしまって、実りある思考を期待できないことが多い。先にも触れたように、筆者は哲学・倫理学・社会学などは門外漢であるので、知ったかぶりの不毛な議論は展開したくない。
さて、論者の論考で、ちょっと、気になった言辞を言うと、犯人の確信の根拠は「…人間の価値は経済的価値を創り出す能力であり、この能力を喪失した人間は生きる価値がないという価値観であって、この価値観の前半は〈よく知られた唯物論的価値観の決まり文句〉ですが・・・」とあるが、この文章が筆者には理解できない。
おそらくマルクス以降の人々が述べた論理の一部に言及しているつもりであろうが、マルクスは例えば、『経済学哲学草稿』(1832)にも、『資本論』(1867)にも決してそんなことは述べておらず、それらに追随する弁証法的唯物論の諸論文ですら、「生きる価値がない・・・」などという議論は全くないし、そんな風には展開されないので、この論者の思い込みだと思われる。どんな論者にも、「思い違いや思い込み」というものはあるものであり、私は、このことだけを指摘して、この論者の論理展開をひっくり返そうなどという気持ちは毛頭ない。
また、「確信犯」なら、「自分が拠り所とする所信やイデオロギーについて、同士や論敵を含めて、討論や論争を残している」から、「確信犯」とは言えない、という論理も理解できない。なぜなら、此の犯人の起こした問題が、こうして、我々の議論を起こしているわけであるから、その意味でも「確信犯」といえる筈で、これも論者の勝手な思い込みであろうと思うからだ。
5.筆者なりの結論
さて、ここで、筆者なりの結論を出しておかねばならないだろう。
論者の対象とされた相模原障害者施設やまゆり園事件[2016]の犯人を、精神医学的にはどう見るかであるが、報道された範囲、あるいは、この論考で取り上げられた事実の範囲でしかモノを言えないので、それに基づいての意見としては、
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決して、いわゆる統合失調症を中核とする精神病者ではない。
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オーム真理教の首犯は幾分詐病の疑いも残ったが、この事件の犯人も、相当偏った世界観や人生観を持っており、決して、それに基づく諸行動が「いわゆる「正義」とは、到底認めることができず、厳しく断罪されるべきである。
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世間の精神病者に対する考え方も、また、現行国家権力のいう「刑法」における精神病者の扱いも、はっきりと間違っており、早晩、解決されるべき大問題である。
おわりに
ここに、求められて稲垣良典氏の論考に対して、ささやかな私見を述べた。以上、ふと、思いつくままに、筆者も幾分勝手な議論を展開したが、こうした論考をさせていただいたことに関しては、論者および編集者に感謝して筆をおきたい。
やまなか やすひろ
1941年生まれ。愛知県出身。精神科医・京都大学名誉教授・京都ヘルメス研究所所長
浜松大学大学院教授・神戸親和女子大学客員教授
名古屋市立大学大学院医学研究科博士課程修了(医学博士)
南山大学文学部助教授・京都大学大学院教育学研究科教授・同大学学部長
国際表現療法学会名誉主席・第19期日本学術会議会員
【受賞歴】
1990年 日本芸術療法学会賞
1995年 エルンスト・クリス賞(米国表現病理学会)
1997年 バスク賞(仏国表現病理学会)
2002年 世界精神医学会金賞
2003年 日本心理臨床学会賞
【著書】
「少年期の心」
「知の教科書ユング」
「子どもの心と自然」
「揺れるたましいの深層」
「深奥なる心理臨床のために—事例検討とスーパーヴィジョン」
「心理臨床プロムナード」
「MSSMへの招待:描画法による臨床実践」
「悪における善 心理学のパラドックス」
「山中康裕著作集」
ほか多数。