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Vol.12
社会保障制度と戦争
鳥飼 行博
東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程教授
​2023.April
日本の社会保障の契機は日中戦争だった??

日本の社会保障制度の歴史について、厚生労働省は、戦後の復興期を経て、高度成長期の1960年代以降に骨格が築かれたが、移り変わる時代の課題に対応するため、不断の改革が必要であると述べている。そして、社会保障の歴史概説として、戦後1946年の生活保護法、1947年の児童福祉法、1948年の医療法の制定から、すなわち戦後の占領時代から説き始めている。国防軍の創設も視野に入れている政治家は、占領軍の歴史認識が国民に刷り込まれ、洗脳されたように主張するが、戦後に社会保障が整ったという政府を批判しないのであろうか。

厚生労働省は、その創設については、「昭和13年1月に内務省衛生局、社会局などの仕事を統合して、厚生省が発足しました。昭和22年9月に厚生省で行われていた労働行政を統合し、労働省が発足しました」とのべて、2001年の発足を中央集権的、警察国家的な内務省の指導力に求めている。しかし、このような公的見解は、厚生労働省の創設と社会保障について、戦争の観点を軽んじているように思われる。

厚生省が設立された1938年、日中戦争の長期化が予測された時期だった。1937年7月7日、中華民国、すなわち当時の中国の北京郊外の盧溝橋事件が勃発し、それを契機に華北で北支事変が始まったが、日本の政府も軍中央も、当初、不拡大の方針で臨んだ。しかし、8月には経済中枢の上海がある華中にまで戦争が燃え広がり、支那事変(日中戦争)と呼ばれるようになった。そして、日本軍は、激戦の末に上海を確保し、そこから中華民国、すなわち中国の首都の南京を攻略するために軍を進軍させた。また、この時期、台湾や九州から出撃した日本海軍航空隊が、杭州、南京など都市爆撃を行ったが、この「渡洋爆撃」は大規模な戦略爆撃の嚆矢である。スペイン内戦の1937年4月、ゲルニカ爆撃はパブロ・ピカソのパリ万博出品作でも有名だが、日本よる中国への都市爆撃は、その後も長く、大規模に続く。

日本軍は、1937年12月、南京を攻略したが、中国政府は、南京から首都を武漢、さらに重慶に移転して、長期持久戦の戦略をとった。そして、日本は新聞やラジオ放送で大勝利を喧伝していたが、実は、中国軍の抵抗によって、日本軍は多数の死者・負傷者を出すようになっていたのである。

いくら勝利を喧伝しても、戦死者、負傷者を出した家族は、夫、息子を失い、稼ぎ手を失い、日常生活の維持が困難になる。家族の行く末が懸念されるようになれば、前線兵士の士気も低下してしまう。

こうした状況を憂慮した日本は、傷痍軍人、その家族を対象とした恩給や障害者施設の整備に動き出した。1904年の日露戦争の時の多数の傷痍軍人に対して、1906年の廃兵院法で、傷痍軍人の手当て、リハビリ、収容の事業が始まっているが、その後、公式的には1934年に「廃兵」を「傷兵」に改称し、兵士が日本や天皇のために犠牲的精神を発揮した結果、負傷、障害を負った勇士として顕彰するようになった。ナポレオンの墓地は、パリの「アンヴァリッド」にあると旅行ガイドにあるが、これは廃兵院のことである。

日中戦争が長期化し1938年に陸軍省、内務省からの人材を中核にして厚生省が設置された。傷兵院は、傷痍軍人療養所と名を変え、全国各地に設置された。傷痍軍人に、盲人用の白杖、義眼・義手・義足などの補装具が提供されるようになり、機能回復のリハビリテーション、新たな仕事に就くための職業訓練など傷痍軍人への支援も始められた。そして、皇族も、傷痍軍人を収容した施設を慰問するようになった。

しかし、これら傷痍軍人とその家族に対する支援は、人権の確立、生活保障を旨とする福祉ではなく、あくまで国家奉公を顕彰し、兵士と銃後の士気を維持するためも上から目線の施策であった。元兵士の障害者は、傷痍軍人錬成大会に参加し、義足でも射撃訓練など軍事訓練を実施し、それを政府は喧伝した。傷痍軍人ですら兵役や軍務に尽くす意気が盛んなのであるから、健康な若者であれば、兵役に就くのは当然のこととされた。このような軍事的発想は、国家に奉仕できる人種民族が優秀であるが、貢献できないものは、役立たずであるという優生学的発想である。

1934年の陸軍省発行パンフレット『国防の本義と其強化の提唱』は、序文で「たたかひは創造の父、文化の母である」としたためているが、この年の12月、アメリカにヘレン・ケラーを尋ね、日本の障害者福祉のために来日を要請したのが岩橋武夫(1898-1954)である。岩橋は、盲人の灯台として「ライトハウス」を設立し点字出版事業を起こした。彼も、日中戦争後に、傷痍軍人への支援を障害者福祉に拡大することを考えた。つまり、厚生省の軍事的視点からの傷痍軍人とその家族への支援を、より広い範囲の障害者とその家族への支援につなげることを欲したのである。

戦争は、前線における兵士たちの戦闘だけではなく、兵士の武器・食糧・衣料の生産、そのための労働力と技術、生産に必要な資源エネルギーの採掘・輸送、さらには資金、世論を戦争に注入する方策まで含んだ総力戦であり、そのためにはモノ・カネ・ヒト・ワザを総動員する必要があった。この中に、厚生省による傷痍軍人への支援も含まれるが、そこでは、人々ひとり一人の生活の質や福祉は問題にならなかった。1941年12月に太平洋戦争が勃発するtと、障害者であっても、軍への献金・献納運動に加わり、航空兵のあん摩マッサージ、聴力を活用した対空監視の軍務に就いた。障碍者も国家奉仕が崇高な義務とされたのである。
翻って、2016年の「津久井やまゆり園事件」では、国家にも社会にも貢献できない障害者は不幸であり、国家や社会の重荷であると蔑む優生学的発想がみられた。社会貢献できる人材の養成が教育の役割であるとすれば、その裏返しが、障害者差別や「いきるに値しない命」の発想になったように見える。

人間は、存在理由を国家や社会のマクロのレベルでのつながりで証明する必要は必ずしもない、というのが自然人の発想である。そこでは、個人、いのちの自己表現として、個性として存在すればよいはずだ。個人は、集合体である社会を構成する一部分であるとみなせば、有能な個人に置き換えることが望まれるが、個人は社会のために存在するわけではないのである。

鳥飼 行博(とりかい  ゆきひろ)1959年、水戸生まれの水戸育ち。

1988年東京大学大学院経済研究科「不確実性下の経済行動−フィリピン米作農村の事例を中心に」博士論文
フィールド調査と称して、アジア、南米、三陸、宇和島など地域コミュニティを訪問し、同じ場所、民宿、家族の下で滞在調査やハンセン病元患者への聞き取り調査も行った。地方の郷土館、資料館、戦争博物館などでも、たくさんのお話を聞かせていただいた。

テーマは、個人経営体のもつ労働集約的技術やコモンズ管理を評価した草の根民活論と市民主導の環境平和学
 

【主な著作】
『アジア地域コミュニティ経済学―フィリピンの棚田とローカルコモンズ』東海大学出版部
『地域コミュニティの環境経済学―開発途上国の草の根民活論と持続可能な開発』多賀出版
『社会開発と環境保全―開発途上国の地域コミュニティを対象とした人間環境論』

 東海大学出版会
『環境問題と国際協力−持続可能な開発に向かって』青山社
『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年―二十世紀初頭から現在まで』青弓社
『写真ポスターから見るナチス宣伝術−ワイマール共和国からヒトラー第三帝国』青弓社
『学習漫画 世界の伝記 NEXT サリバン先生 ヘレン・ケラーとともに歩んだ教育者』集英社
『学習まんが 世界の伝記 NEXT ヘレン・ケラー 世界に希望の光をあたえた奇跡の人』の監修

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